昭和49年09月01日 月次祭
世に障り目に祟り目と言うことを申します。何か難儀な事が起ってまいりますと、次から次と困った事、いわば泣き面に蜂と言った様な事が有りがちだと言うのです。信心は例えば信心を頂いておるというても、矢張り様々な事があります。降る事もありゃ吹く事もあるのですけども。そこの所を例えば降っても、信心の傘をささせて貰うと濡れんで済む。吹いてもそれこそ、神様任せになって。
それこそしだれ柳が風に逆らわないように、神様任せ風任せになっておりますと、折れんで済むと言う様なおかげを頂くだけではなくて、そういうおかげの頂けると言う事、普通でいうたならこう言う難儀な中に普通で言うならば、難儀な事であろう普通から言うなら、これを地獄の真ん中と言うのでもあろうけれども。信心のおかげで地獄の中に仏を感じさせて貰い。難儀な中におかげで信心が出来ますと言う様な、生き生きとした心が生まれてくると言う事はなんと有り難い事かと言う事になってくる。
その有り難い事からいわば、又次の有り難いことに切り替えられ、転換のおかげを頂いていくのであります。普通ではそこが障り目に祟り目て言う様な事があるんですけれども。信心はそういう障り目とか祟り目と言うような、いわば難儀と言うか人間の節というような時に、その節を元気で乗り越えますからそこから芽が出る、そこから栄える元が出来るというおかげの頂けれるのが信心ですから。信心をそこまで頂いとかなければならん。何かがあってすぐへこたれると言った様な事ではおかげにならん。
今日浮羽の安東さんが、毎日お参りになって、月末で大変切羽詰った、もうどうにも出来ないこうにもならんと言う様な時。もうそれこそどん座って神様にお縋りするより他にないという時。もう本当に合楽示現活動に参画させて頂いておるのであるから、もうどうにも出来んのだから。神様の前に両手をあげて、いうなら降伏の状態、そして神様のお喜び頂けるという御用に、一生懸命専念させて頂いとりましたら、もうそれこそもうこりゃ毎月毎月の事でございますけれども。
神様のお働きの素晴らしさにね、ただ感泣する外はない、恐れ入るより外には無いというおかげを頂いておられます。私共はそういう手を体得しておるどうにも出来ない。私が二十数年まだお商売をぽつぽつやっておる時分でした。その時の金でどうでも一万円と言うお金を、福岡に寄りましたから当時の椛目の方へ、帰って持ってこなきゃならんもう今日と言う今日は、どうでもこちらまで持って帰らにゃ帰られんと言う事があった。もうどうにもしょうがないんだから。当たるとこ当たっても出来ないんだから。
だから教会にお参りするほかないから、荒戸の教会に何回も何回も、長浜町から帰っては参り帰っては参り、三回目の時でした。時間も段々切迫してきとります。そしたら先代の先生が、大坪さんちょっとこの御用してくれんかと言うて、ご神前の掃除を私に命じられた。はあまあ今日はこんな訳ですけんと言おうごとあるけれども、しょうがない。それでその御用をさせて頂いて、まぁとにかくいくどころかね。
又それこそ帰らせて頂いて、丁度電車通りと荒戸のあそこの、十字路んとこに来た所でぽっかりもうそれこそ、何十年ぶりにいわば私の竹馬の友でありますところの、椛目で今自転車屋をしておられる方の弟さん、生野ただよし君という人が、福岡のほうへ来ておると言う事は聞いておったけれどもね、会うた。やぁ大坪君、生野君というわけです。何十年ぶりだろう。まあとにかく私この唐人町におるから、とにかく私ん所へ寄れとこういうわけなんです。
いや実は今日は私は早く椛目に帰らんならん、どうでも帰らんならん用件があるんだけれども、実は椛目におるんだと、どうした訳かといや今日はねもう切羽詰って一万円、どうでも作って帰らにゃ帰られない事がある。そんなら騙されたと思うて僕ん所へ寄れというから唐人町の、もうすぐそばですから、寄らせて頂いてお茶でも頂きながら、実は大坪君やっぱあんたが神様に参りよるけん、おかげばいちこう言う。
丁度自転車の後に弁当箱位、あの時分は百円札がなかったですから十円札でしたから、一万円でも丁度弁当箱位にあったんです。弁当箱位のとを、後ろに結いつけておる事は結いつけておりましたけん、私は弁当箱じゃろうと思いよった。所が今日は思いもかけない所に、一万円集金のあっとるち言う。やっぱあんたが神様参るけん、おかげ頂いとるとばいと言うて、それこそ何の躊躇もないで、借ってお茶もかつがつでそのまま走って帰ってちょうど間に合うたと言った様な事があった。
だから信心させて頂いておると、どうにも仕様が無い時にです、そこから開けてくる道がね、ちゃんとつけて下さると言う事が有り難いです。私はね今朝からずっと皆さんにも聞いて頂いたことですけれども。成程今は合楽では世界天下国家、地球上に住む総人類のね、幸せをいや一人でも多く生き残れる事のためにです。合楽示現活動に参画させて頂いて、一人でも本当に神様を信じての生活が出来る人を、お導きさせて頂こうと言う様な事に、やっきになっているのが今の合楽教会であります。
今朝のご理解に、大きな信心をせよと、迷い信心ではいかん。大きな信心をせよ。一心と定めいと言う御理解に基づいてご神訓を頂いた。大きな信心と言ってもそんなら、天下国家の事を祈るとか、思うと言う様な中身が空ではいけない。それがね着々とですこうやって進めて行けれるおかげ。それには先ずは自分自身がです、神様がこのようにも間違いがない、一分一厘の間違いのない働きをもって、人間氏子の上にこの様な働きかけをして下さる事を信じての生活、信心生活。
そこで最近言われます所の、合楽にご神縁を頂いておる方達が、先ずは殆ど又は段々言うならば、貧乏のない世界病気のない世界、争いのない世界に住み替えていっておると言う事実なのだ。そう言う事実を踏んまえて、それを私は信心させて頂いとる者の、有り難しと言う事に、その有り難いというものを広げていこう。それを最近は光の輪を広げていく、光輪の世界とこう言うておる。
私は最近私がやっきになっておる、皆さんもまた一生懸命であるが、神様もなおさら一生懸命でおありになるなぁと言う事は、最近おかげの泉でおかげを受けるという人のお礼状が毎日来るです。遠隔地の方からもう今日来た手紙なんかには、ベッドの上で十五回読みましたち毎日必ず時間が来る頃には、熱が出らなければらんはずの熱が出らんようになった。痛まんならんはずのつが痛まんでおかげを頂いておると言う様な、まあいうならば、合楽の教会だけではない、今は合楽教会に縁を頂いておる。
いやおかげの泉を愛読しておると言うだけの人たちの上にまで、奇跡が起こっておると言う事です。今日は朝の三時頃から、延岡の教会のご信者さん方が、自動車三台に分乗して朝参りを致しております。伊万里から一団体、武雄から一連れ、熊本それから、大分近くは直方、福岡、久留米は近い所、朝倉郡あたりはもう近い所なんです。朝の御祈念にそれだけの人達が集まっているんです。そこ一杯。いかにですいうならば、光輪の世界が広がっていっておるかと言う事を、感じます。
その輪がです愈々広がりに広がって、地球上の人間もう全てと言いたいのだけれども、それを信じて疑わず、それを頂いていく人達の上にです。神様が生き残る人々としての、おかげを下さるんだと言う事を私は思います。だからそういう大変な祈りとか、願いを持っておるのですけれども、先ずは私自身が、先ほどの安東さんのお話じゃ無いですけれども、もう毎月の事ですけれども。
親先生が日に日にさらと言われるが、日に日にさらな心と言うのは、日々刻々神様をここに実感させて頂く生活をしとりゃ、言わんでも願わんでもさらな心が頂けると言う事を、安東さんが、昨日言っておられます。確かにそうなんですよ。私のお話がいかにも同じお話しの様であっても、それが新たなさらなものに聞こえてくるとか又私の心の中に、いつもさらなものを感じとると言う事はです。
私がそれこそ霊妙不可思議と思う、まぁ神様とは不思議なお方じゃなぁ、有り難いお方じゃなあぁと思い暮らしておるから、そこから思うて来るもの出て来るものは、さらなものばっかりです。そういうおかげを頂かなければです。日に日にさらなと言う事にはなって参りません。今朝方から私お夢を頂いた。ここの駐車場を四倍にした位名広場で合楽のご信者さんが、もう一杯輪になって盆踊りでもするように、輪になっておる。私は真ん中の塔の様なとこの上に立って、それを見ておる。
まぁやっぱり盆踊りの様なものを踊らなければならないようですけども、所々は踊ってとるけれども踊っとらん。こうせにゃん時にこっちの手をこうやっとる。そしてそれが間違うたと言うてね、もう本当に輪を作っておると言う事が楽しい事ではあるらしいんです。けどもその踊りがそのひとっつもリズムの乗ってないわけなんです。こうせんなん時にこうしたり、足あげにゃん時に手を上げたりしとる訳です。それで自分でしてやり損なうてから、おかしいていうて一生懸命、笑っておる所を頂くんです。
是こそが今合楽示現活動に参画しておる人々であろうとこう思うたんです。所がね私がここ一ヶ月余り明けても暮れても口を開けばこの事を言う。だから親先生どうぞ合楽示現活動に参画させて下さいと言うて、お願いをしよるんだけれども実際はどこから手を付けてよいのやらどこから、足を上げてよいのやら分からんでおるというのが、今の合楽の皆さんの姿ではなかろうかと思うんです。合楽理念神様の間違いなさ、いうならおかげを頂いて私私一家がこの様な極楽の様な生活をさせて頂いております。
合楽のご信心者の、いうならばほとんどの方が、そういうおかげを銘々頂いておるんだということ。先ず家庭には薬箱が無くなった。争いがない訳じゃ無いけれども、親先生はどう言いなさるかと言う事ですぐ答えは出てくる。それこそ安東さんじゃ無いけども、銀行に金の山を積んどる訳では無いけども、けれども必要な時にはです、それがどういう大金であって、必要な時には必要に、ちゃっとお繰り合わせを頂いておると言う事実なんです。そんならもう一つも不自由してないと言う事。
貧乏はしてないと言う事なんです。どんなに巨万の富が銀行にあってもです。いま久留米の医大から毎日、お参りをしてくる方があります。韓国の方らしです。李さんて言うんですから。あぁたは韓国人ですかと言うて、聞きませんから分かりませんけども、日本人言葉はちっとおかしい、やっぱそうじゃ無いかと思うんです。それこそお金はどれだけあるやら分からんほど持っておられるそうですけれども。
ご主人が七年何ヶ月もう先月、今月が難しいと言われておられる、いうならば肝臓何とか癌の、愈々末期症状でここ数日の命であろうと、お医者さんは言われる。だからお金があってもね物があっても、ただ健康であってもです。それで極楽と言う事ではないと言う事が分かります。お金はその日その日いわばその日暮的であってもです。不安の無い生活が出来るなら、そして健康であるなら、そして争いのない生活が出来るならば、それこそが極楽なのだ。そういう極楽の世界を自分の周囲に広げていこう。
極楽を願わない者は先ずは無かろうけれども、お話をしても中々それが素直に受け入れられない、ほんなこっちゃあるじゃろうかと思う。その方が昨日お参りして見えてです。本当に主人はあぁいう病気をしております。子供は十九才になる子供が、ノイローゼの状態である。長男はこの三日に結婚式をしなければならない、と言う所になっとるけれども、どこからどうして手を付けてよいか分からん。
主人は苦しみ抜いて私を離さない。ちょっと用件があって、自動車に乗って行く時にです、ダンプかなんかがばぁっとやって来てです、そして是にもうぶっつけてくれて、そして何にも分からんなりに、死んだならばさぞ良かろうと思いながら、自動車の運転いたしておりましたち言う。所がねここにお参りをさせて頂く様になって、熊谷のお婆ちゃんのお話を聞かせて頂く様になって、心の中にね希望が出来て来た。もう主人が死ぬるとか生きるとかじゃ無い、ここに自分も助かる道があると感じ出した。
昨日一昨日がお参りがあってなかった朝。それで今日はあちらが、お参りがあっただだろうかと、熊谷さん毎日お届けしておられますから、今日お参りがあってませんでした。そんなら今日あちらにやらして頂こうと言うて、病院の方へ行かれた。そしたら病院の入り口で出会い頭に、はぁお婆ちゃまとこう言われる。実は今朝からあなたがお参りがあっとらじゃったから、どんなふうか見に来たとこう言うたら、いえ私は今から遅うなったけれどもお参りすると思いより所でしたとこう言うのです。
それでお参りをして来た。それから熊谷さんは、もう吉井さん帰る積りだったけれども、もういっぺんあちらへ病院の方さん帰ってから、病人さんにもお話が出来るなら、お話もさせて頂こう、孫にも会うて行こうと言う気持ちにならせて頂いて又病院のほうへ行かれた。その道々にです、本当にお婆ちゃまお宅の孫さんやら、お嬢さんたちは本当に幸せですて、こういう良いお婆ちゃん、信心のあるお母さんを持って幸せですて。私はもう身寄りがない。誰にどうと相談しようが無い。と言うてなげかれるのを聞かれてから、熊谷さんが言われた。
李さん私はあなたもうちの娘もあなたも、同じ思いで神様にお願いさせて貰いよりますと言うた。もう大変喜ばれた。喜ばれた後に熊谷さんがハッと自分に気がついて、果たして自分なこんな事を言うとるが、この韓国の一婦人と自分所の娘と同じ思いと言うとるが、果して本当だろうかと思うて、自分の心に問うて見たらです。むしろその事を、今一生懸命祈っておる、自分に気がついて有り難かったち。信心の心がいわゆる愛の心と、慈悲の心を一つにしたような心ですねこれは。
それを私は神心だと思うんです。それからあちらに行かれて、孫さんに会われて、お話しをよったらもう夕方になった。そしたらお婆ちゃま今夜は泊まっていってくれと言う。まぁ一生懸命信心の話を聞く。そしてですいうならばもう五日後には死ななければならないはずの僕が、生きておると言う事。自分も九大生ですお医者さんの卵なんです。お家は大きな病院なんです。
それでそれこそ医学万能であった僕がです。今度の長いこの休みつかせて頂いてです、もう生きるか死ぬるかと言うとこを通らせて頂いて、お婆ちゃまひとつ本当な事が分かった様な気がするというて言われた。正則さんどげなこつが解ったつねち言ったらね、もうお婆ちゃま人間が、愈々ん時にはね医者やら薬は、全然頼りにならない事が分かったち言わっしゃった。いやぁあんたよかこつが分かったね。これからあんたが、おかげを頂いてお医者さんになる。
そしてあんたがそういう徹底した気持ちで、患者さんに触れられるならば、あんたんところにかかって来る患者さんが、幸せをする事だろうと言うて、お婆ちゃんと孫で喜び合ったとこう言う。所が正則さんスヤスヤと休みだした。もう夜夜中何べん見てもいつもスヤスヤ寝とる。朝目が覚めてもう昨夜はお婆ちゃんいつ起きったちゃ、寝とったがて言うたらお婆ちゃま僕は始めて熟睡と言うものをさせて頂いた。お婆ちゃまもう是から毎晩泊まって貰いたいと言う様な事を言うて帰って来たと言っておられます。
白血病というもう今の医学ではもう出来ないようない病気。しかももう五日しかもてないという命がです、おかげで一週間生き延びた十日間生き延びた。一ヵ月、二ヶ月とおかげで生き延ばして頂いておるうちに、お食事がいけるようになった、血が増えて来る様になった。あらゆるいうならば医療器具と言うものが、寝台の周囲を埋め尽くすごとあった。こげん時にはこの機械こん時にはこの道具というふうで。
それが一つひとつ取れて今はもう何にもない。冷蔵庫の中には食べ物ばっかり、もうとにかく病院から来る食べ物だけでは足らんち言う、と言うくらいにおかげを頂いて。そして、南瓜は南瓜茄子は茄子の味わいが分かると言う事は、お婆ちゃま有り難い事と言うて、寝ながら病人が言う。もう本当に病人から教えられると言うておられる。そう言ういうならば、おかげを頂いておる人がおったおかげでです。隣のお母さんが隣の今の韓国人、その方にお話しをした。それからお参りして来る様になった。
私じゃ出来んからお婆ちゃま、だからあなたが私は久留米のほうから来る、あなたは吉井の方から来て下さいと言うて、ここで出会ってそれから毎日、自分の娘にもかけた事の無いような、強烈な祈りを祈られておる、熊谷さんのねそういう私は人類愛の、一番素晴らしい所だとこう思うんですけれども。いうならばそういう教祖様のお言葉を借りると、天が下に他人と言う事はなきことぞと、教えられますようにです
。地球上の誰彼の上に、いや特に難儀な人たちの上に、そういう思いがかけられる信心、これが私は、大きな信心だというふうに、今朝から聞いて頂いた。次には昨日月末御礼信話会で、久富繁雄さんが発表しておられた。昨日はレタスを三千本から移植した。それに当たって長男の国男さんが、あんたもう明日は暴風雨が来るちゅうとに、こげんしてよかのちこう言う。お取り次を頂いての事じゃじからよかがと。いうならば吹きゃせんが降りゃせんが、と言う事なんです。
そうばってんあんたが言うとは時々、あんた違うちから降ったり照ったりするじゃんの、堪えて国男さんち、金光様の信心なね、降るから照るからどうこうじゃなかよ、それこそ御取り次を頂いて起きる事を、それは良い事悪い事皆良い事だと頂く事なんだ。お取り次を頂かずして起きて来る事、それは良い事悪い事、皆悪い事だと言う様ないわば信念、そういう観念と言うものが、金光教の信心なのだ。と言う様な意味の事を息子に申しましたという話を、昨日なさっておられた。
これなんかも私は徹底した大きな信心だと思うですね。御取次ぎを頂いてそれは右になろうが左になろうが、あなたに任せてあるというのある。しかもですそして必ず肉眼で見る所では、困った事の様になっておるけれども、その事は必ず二年先、五年先、十年先、何十年先にでもです、必ずそれがおかげの元にはならないはずはないと信念する事が、金光教の信念です。どんなに都合良う行っておっても、お取り次を頂かずして起きて来る事はです。皆悪いと知る事が、金光様のご信心なんです。
同時に昨日、久留米の光橋先生が発表しておりました。いつもあちらは大黒様の奉祭を致しました。それこそお神様と霊神様の間に大黒様をお祭りして、親先生がお茶をお好きだからと濃い濃いとお茶を入れて、お茶のお供えをさせて貰うた。そして親先生がこの頃氷水をしきりに頂かれるから、氷水もまたお供えさせて頂こうと言うて、今度氷水をねその大黒様の前にお供えした。そしてこちらへお神様の間から、こちらへ出てきたらです昨日はお金が一銭もなかった。
昨日の言葉で、明日はお金が入って来る事になっているけども、今日は愈々お金がないと思うておったら、それこそ思いもかけない人がご神饌、金を持って来てくれた。いわゆる大黒様霊験談なんです。私は金光様のご信心はね小さい所から、先ず神様のこの様にも間違いがないと言う信心をね、それこそ牛馬の事に至るまでです、自分が願う事を願わせて貰うておかげを頂く事。今日小遣い銭が無いなら小遣い銭の事まで、祈り願わせて頂いて、おかげを受けるという信心がです。
段々それが本当なもっと素晴らしいおかげに、それが育っていかなければいけない。ただ大きな信心と言うて、こう言う所も分からず知らず、そういう体験も持たずに、天下国家の事を祈った所で仕様がない。そこで合楽の皆さんの場合はです。例えば一年もここにご神縁を頂いておるならば、それこそ日々有り難い体験を持っておる。おかげの事実を持っておる。だからそれを広げていく世界を、合楽示現活動と言う事になる。そこにはなるほど合楽示現と言う事がです。
神仏が不思議な働きを示し現す事だとだと、字引の上に出ておるそうですが、神様が確かにそういう心にならせて頂くと、神様がお膳立てをして下さっておる様に、示現活動が始まっておる。それこそこういう雰囲気と言うものが、予想もしないように例えば今日ここが、とにかく賑いましたように。しかもね九州の果ての果てから、みんなお参りして来ておると言う事。いわゆる合楽示現活動、神様が不思議な働きを示し現しておられる姿であると私は信じます。
それが私どもが打って一丸になって、本当の踊りを踊れるようになって、ひとつの天地が奏でて下さるリズムに乗って、私共が同じ風にこうやって手を上げてから、その盆踊りでもする時の様なね、おかげが頂けたらそれこそ楽しい嬉しい中にです、はぁ素晴らしいあの踊りの輪に私もかてて貰いたいと言う様な人も出てくるだろう。そういうリズムに乗った調子が出てきたらです。例えば示現活動も愈々しやすくなるだろう。神様の願いが神の悲願がその様にして叶うて行く事であろうと言う事であります。
今日は末永先生が最近の、合楽のこの状態の中におってから、じっとしておられんという感じなんです。僕の学院生の友達に全部手紙を出したい。そしてここでね一夜信心実習会をしたい。そして合楽の信心をとにかく少しでも良いから一つ、体得してもらいたい。そう言う事をさせて頂きたいと思うがと言うて、お届けしましたから結構な事だなと言うて、お話致しました。そういう働きが起っておる。先日から秋永先生が、ここ辺の教会を代表してご本部に、入殿のおかげを頂いた。
それこそ始めから最後までと言うて良いほどに、合楽の信心で終始したと言う事である。帰りには五十冊おかげの泉の注文を受けてきたち言う。それはねおかげの泉が売れましたという事じゃないのだ。そこに本当に神を信じて助かる人が、そこに一人出来ると言う事なんだいうならばです。地球上の人類はです破滅と言う事に例えばなっても、生き残る人々として生き残れれるんだと。悪が滅びて善が栄えていく、本当の時勢と言う事にです、神様の願いがこの様にして表れてくるのだ。
言うても分からん、聞かせても分からん痛い思いをしてでも、地球上の人間にその事を分からせようとなさっておられるのが、今の神様の御働きであり、それこそ今朝の御理解の中にもありますように、サハラ砂漠に雪が降る何十万の人間が凍え死ぬ、南極に船が海が凍って動かれないと言った様な奇跡な現象があるという事、地球上に。これは神様がねそれこそ痛い思いをさせてもです。おかげを下さろうとにかく人間に、目覚めてくれよ、気付いてくれよと言うておられる、私は神様のお声であると思います。
先日から私は頂きます事には、今の地球はねもう死相が現れておると言う。末期症状が、現在の地球の姿だと頂いた。そうもう末期症状なんだ。そのお知らせを頂いた時に、久留米の佐田さんが、梅の紫蘇葉を頂かれたと言う事です。死相ですやっぱり。けれどもここは自分の心を神様に向けて、神を信じる生活が出来るようなおかげを頂いたらです、その死相が現れておる程しの人でもです、助かる事が出来るという、一るの希望をそこに感ずるのです。ですから一人でも多くの人にです。
この事実を分からせて、そして神様を信じる生活をさせて貰う。そして悪を滅ぼして善を生かしていく働きに参画さして頂くと言うのがです、合楽示現活動に参画すると言う事でございます。それには先ずですとにかくおかげを頂かなければならない。最近の合楽では疑うても願うならおかげをやると仰るです。そうだろうと思うです。最近の毎日ここで起きている奇跡を思うたら。半信半疑ではおかげは半分、今まで頂いてきたです。
けどもそういう人にでもおかげをやって、はぁ神様ちゃ有り難いな、偉大なお方だということが分かって、そこから神様を信ずる稽古をしていくならばです。そこに一人の人が助かれば、一人が生き残る事になる。神様の願いは、そこに集中されておると言った様な感じであります。愈々九月の月に入らせて頂きました。十月は御大祭、その前の修行月としてです。私共は何をもって、神様へのお礼のお祭りとさせて頂こうか。
本気で示現活動に参画させて頂いて、一人でも多くの人がです、大祭の当日には、沢山な人がお参りになって、私の話を聞いて下さって、そしてそこにこの前の三十日、十六日の先月の十三日の、夏のお祭りの時にです。それこそ丁度お祭りが済みましてね、済みまして私は裏へ下がります。光橋先生が御結界奉仕しておりました。そしたら今まで顔を見た事も無い人達がずうっと並んどった。
それがね始めてお参りさせて頂きましたら、こげなおかげを頂いて動かん手が動くごつならりました。見えよらじゃった目が、見えるごつなりましたと言う様な、奇跡のおかげを頂いた人達がとにかく参って、一辺お礼を言わなきゃおられんと言う人達が並んでおったと、光橋先生があそこで申しております。ですからそういうおかげの頂けれると言うことじゃなくて、そういう神様の大きなお計らいの中にです。参画すると言う事は、計画に預からせて頂く事だと、字引にでておるそうですがです。
そういう神様の大きな計画、願いにです、参画させて頂くと言う事が今、合楽の信奉者の願いとしなければならない事であるという風に思うのです。大祭を控えた一ヵ月。どうぞ、そういう意味でです、愈々合楽の示現活動に参画のおかげを頂いて、それこそ自他共に、本当の意味においての合楽のおかげ、神も喜び氏子も喜ぶ、いわゆる歓天喜地、天も喜び、地も喜べれるというおかげ。
これが一つ間違うと寒天危地、寒い天危ない地上と、私はこの二つの「かんてんきち」を頂いておりますそういう岐路にある時なんです。ですから私どもがそれこそ今日どなただったでしょうか。この運動に命をかけておかげを頂たきたい言う方がありましたが、本当、命を懸けて私は悔いのない事であると思います。尊いそういう神様のいうならば、神業と言うか神様の業に、私共も参画させて頂きたいというふうに思うのでございます。
どうぞ。